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空海や道元など有名な僧侶の生涯などについて解説します。

最澄

冷静沈着な僧侶

最澄 写真

伝教大師最澄は礼をわきまえて沈着で冷徹、激することのない人物でした。
ライバルであった空海とは逆で、静と動、水と火のような対照的な気性の 違いがあったと考えられています。 空海を実践家とするなら最澄は思索家で、最澄自身も 「我、生まれてより以来、口に麁言なく、手に笞罰せず」と言っています。 その最澄も817年に始まった徳一との論争では声を荒げて戦うことになります。 徳一は恵美押勝の九男と伝えられ、奥州会津に住む法相宗の学僧で南都興福寺 や東大寺で修行の後奥州に移り住み民衆教化に力があったといいます。 東国の化主・菩薩と呼ばれて仰がれる、
カリスマ的な学僧でした。 最澄が東国布教の旅をした時に、「法華経」は人々を真実の教えに導くための 方便に過ぎない権の教えである、と徳一が批判しているのを知ると、 これが発端となって二人の論争は始まりその後十年近くも続くことになります。 法相宗は南都六宗を代表する宗派で、最澄にとってこの論争は南都旧仏教との 僧侶としての生命をかけた闘いだったのです。 最澄はこの時五十一歳で、論争は彼が死ぬ822年まで続きました。 これが世にいわれる「三一権実論争」です。



三一権実論争

「法華経」の唱える仏一乗(乗は乗り物のこと)では、仏も衆生もみな 一様に仏性を具えて同じ乗り物に乗っているから、等しく悟りを得て成仏 することができるとされます。 それに対して法相宗の説では、人が生まれながらに具えている素質を五種に 区別して、それによって成仏できるかできないかが決まるとします。 これを五性格別といいます。 五性の中でも悟りが得られるのは菩薩、縁覚、声聞の各定性を具えた者だけで この3つを三乗といい、
成仏できるかできないか、あるいは絶対に救われない 不定性、無性がその下に置かれています。
最澄はこうした法相宗の五性格別と三乗こそが権の教えであり、衆生を差別 するものであると激しく反駁しました。 この論争は仏法の真実と教化の方便を巡る苛烈な闘いとなりました。 最澄は徳一の法相宗の説に反論して、
「守護国界章」「顕戒論」「法華秀句」 などを書き著しました。 これらの著作は日本の仏教史上に不滅の光芒を放つものであり、最澄が心血 を注いだ労作となります。 このように徳一への攻撃も手厳しく、仏法では最も罪が重い謗法者、悪法者、 外道、善知織魔などと冷静な彼にしてはかなり激しく罵っていました。


天台法華宗

徳一の方も最澄に対して愚夫、顛狂人、凡人臆説と非難していましたが、 論争の内容が仏法の根本に関わる事柄だけに、お互い感情的にならざるを 得なかったのでしょう。 最澄の南都仏教との対決は徳一との論争が初めてではなく、彼が悲願としたのは 南都仏教からの完全独立でした。 当時官許の僧となるには東大寺戒壇院で受戒しなければならなかったのですが、 僧として立つには必然的に南都をその根本道場に仰がなければならないと いうことになります。 これは入唐求法から帰朝して新しく天台法華宗を開いた最澄にとって、 受け入れられるものではなかったのです。 しかも私に得度する私度僧は厳しく禁じられていました。 ですので比叡山の大乗菩薩の戒壇院を建立することが、最澄の生涯の悲願 となりそのため東大寺で受けた具足戒を放棄までしています。 そして著したのが「天台法華宗年分学生式」で、これは今でも天台宗の聖典 になっています。 この天台法華宗年分学生式には 「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心あるの人を名づけて国宝となす。 故に古人のいはく、『径寸十枚、是れ国宝に非ず。
一隅を照す、 此れ即ち国宝なり』と。・・・道心あるの仏子を西には菩薩と称し、 東には君子と号す。
悪事を己に向へ、好事を他に与へ、己を忘れて他を 利するは慈悲の極みなり」 とあります。



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